声しか見えない
[Menu]






【2】



左の部屋は白い皮膜に覆われたまま。
白幕の外れた右の部屋のその室内、家具らしきものもなくこざっぱりとしているが、唯一、パソコンだけが目を引く。
今、右の部屋に藪内育夫が独り。
右目に眼帯をして、パソコンを打っている。
時折、ふと顔を上げ眉間をつまみ、左目をしばたく。
それから再びキーボードに向かって、ふと手が止まる……。
躊躇、かすかな狼狽……。
そこへ背をかがめ、両手にカップヌードルを持った中年の背広の男が現れて−。

背広男こんなことなら何か買ってくればよかったっすね。
藪内腹ン中に入っちまえば、何だって同じだよ。
背広男でもこんなモンばっか食ってると、体によくないっすよ。
藪内おい。[ On Line Theater ]
背広男何すか?
藪内クエスチョンマークが出ないぞ、これ。
背広男へ?
藪内さっきからそのマーク、押してンだけど。

背広男、パソコンを慣れた手つきで操作して−。

藪内あ、そうかそうやるんだった。
背広男食べましょうよ、ヤブさん。もういいっすよ。(食べ始める)
藪内ひと息入れるか。
背広男(ポケットに差した箸を渡しつつ)今、何書いてるンすか?
藪内 大したもんじゃないよ、こっちは隠居の身だから。(食べ始める)
背広男またまた、定年前に自分から辞めちゃったくせに。さしずめ大宅壮一ノンフィクション大賞、とか狙ってンじゃないすか?
藪内俺のは単なる覚え書。
背広男覚え書?
藪内ま、ボケ防止みたいなもんだな。そっちはどうなんだ?
背広男 俺っすか? 俺は相変わらずっすよ。
藪内社会部のデスクになったんだろ?
背広男ダメっすねぇ、近頃はホネのある奴がいなくなっちゃって。部長クラスもすっかりサラリーマン化しちゃってるし。
藪内所詮ブンヤも、一人一人は組織の歯車。
背広男今、ヤブさんみたいにビシビシ言う人、いないっすから。
藪内俺だってハナクソには負けるよ。
背広男懐かしいなぁ、往年のハナクソ部長。あの人、鬼みたいな人だったっすよね。
藪内スクープとるためなら人殺しだってやりかねないよ、ハナクソは。いつだったかなぁ、コロシの被疑者に張り付いてて、いつ逮捕状が出るかって時だよ、ハナクソの奴、シビレ切らして被疑者ンちに乗り込んだことあんだから。
背広男乗り込んでって何したんすか?
藪内買収しようとしたんだよ。
背広男買収?
藪内今自首してくれたら保釈金こっちで持つって。
背広男それこそ犯罪じゃないっすか。
藪内で、俺に言うんだよ。そうやって奴を徹底的におちょくるからカッとなって殴りかかってきたら、ヤブ、お前その写真撮れって。
背広男そこまでしますか?
藪内するんだよ、あのハナクソは。
背広男花岡さん……。
藪内ン?
背広男みんなにハナクソって呼ばれてたの、知ってたんすかね?
藪内知ってただろぉ。サツ回りン時、スクープのためならクソでも食いますハナクソの花岡です、自分でPRしてたんだから。
背広男やっぱそこまでやってブンヤなんすよねぇ。
藪内さすがに今時、そんな奴はいないか。
背広男俺がいるじゃないっすか。ヤブさん、水飲みます?
藪内あ? うん。

背広男、自分のカップヌードルだけ持って部屋を出る。
藪内はふと思い立ったように眼帯を外して、目をしばたき、片手で左右の目を交互に覆ってみる……。
すると水を持って背広の男が戻ってくるが、その風貌、見るからに若々しくなっていて−。

若背広男ついでに薬、飲んじゃったらどうっすか。
藪内そうだな……。
若背広男これ、もう下げちゃっていいっすか?
藪内あ? うん。

若背広男、藪内のカップヌードルを持って部屋を出る。
ふと藪内は、今何か「トンデモナイコト」が起こったような気がして、若背広男の去ったほうを気にして立ち上がる……。
またすぐに落ち着きなく腰を下ろすと、右目に眼帯をかける……。
そこへ背広男が現れて−。

背広男どうっすか、具合は?
藪内 ………。(背広男の顔をまじまじと見る)
背広男どうかしました?
藪内あ、いや……。
背広男ストレスじゃないんすかね、環境が変わったっすから。入院もしてたし。
藪内……手術して、かえって調子悪くなったような気がしてね。
背広男視力とか落ちました?
藪内時々かすむっていうか、ブレるんだよ。
背広男ブレる?
藪内右で見えンのと左で見えンのが一致しないっていうか……
背広男二つ見えるんすか?
藪内……ブレるってそういうことだろ?
背広男どの程度?
藪内……程度って?
背広男ブレ具合っすよ。右と左、丸っきり別々に二つなんすか?
藪内それじゃ収拾つかないだろ、気ぃ狂うぞ。
背広男収拾はついてんすか、ブレてて。
藪内ほらあのテレビの、映りが悪いテレビによく出る、なんだった、あれ?
背広男 ゴースト?
藪内それだ。あれと同じで微妙にズレたりするもんだから、車酔いしたみたいにすぐ気持ち悪くなるんだよ。
背広男 今もズレて見えてるんすか?
藪内しょっちゅうってわけじゃないんだけどな……。(言いつつ眼帯を外して、左手で左目を覆ってみる)
背広男ズレてます?
藪内………。(首を横に振り、今度は右手で右目を覆ってみる)
背広男ズレてます?
藪内………。(首を横に振り、いったん両手で両目を覆ってから手を外してみる)
背広男ズレてます?
藪内……吐いていいか?
背広男 なんなんすかねぇ。
藪内気持ち悪い。
背広男目薬、ちゃんと注してます?
藪内注してるよ、気がつくたんび。いつもポケットに……(上着を探るが)あれ?目薬、どこいった?
背広男ないんすか?
藪内確かポケットに……隣か?
背広男隣の部屋っすか?
藪内さっき着替えた時に確か注したな……。(行こうと)
背広男俺、取ってきますよ。

背広男、藪内を制して部屋を出ていく。
藪内は引き続きポケットを探ると、ポケットに目薬を見つけて−。

藪内あ……。(頭をかき、背広男を呼び戻そうと声を張り)あったよ、こっち。ズボンのポケット。

すると左の部屋から返事がダブって聞こえて−。

二重の声え? あったんすか?

その声に振り向いて、目を奪われる藪内……。
見ると、左の白い皮膜に男の影……。
影はみるみる輪郭がズレて二つの独立した影になったかと思うと、膜一面が真っ白に飛び、その皮膜から飛び出たかのように若い背広の男が、藪内が驚きに震える右の部屋に現れて−。

若背広男 あっちの部屋、何もないんすね。[ On Line Theater ]
藪内………。(若背広男の顔をまじまじと見る)
若背広男どうしたんすか?
藪内……あ…この頃どうも忘れっぽくて。
若背広男気にすることないっすよ、人間なんすから。(パソコンを顎でしゃくり)あいつのようにはいかないっす。
藪内あいつ……?
若背広男パソコン。コンピュータ。人間もあれ?って思った時にフロッピーから引っ張り出せりゃ楽なんすけどねぇ。
藪内そ、そうなんだよな。ちょっと御無沙汰してると人の顔なんてすぐどっかいっちまうし。
若背広男 なんで忘れちゃうんでしょうねぇ。
藪内佐和子は最近どうだ?
若背広男(驚いて)え?
藪内……佐和子だよ。相変わらずか?
若背広男………。(藪内の顔をまじまじと見る)
藪内……顔、なんかついてるか?
若背広男あぃぇ……元気っすよ。ヤブさんのこと心配してます。
藪内その割りにはちっとも顔見せないな。
若背広男なんか、持病のぜんそくがぶり返しちゃったみたいで。
藪内元気ないんじゃないか、それ。
若背広男いやあのだから、ぜんそくはぶり返したけど、めげずに元気モリモリやってるぞぉってことで……
藪内ガキの頃からだよ、あいつは。
若背広男え?
藪内里子もずいぶん手を焼いてな、体が弱くて往生したよ。
若背広男でも今は元気でやってますから。
藪内たまには顔見せるように言っといてくれ。里子も寂しがってるから。
若背広男分かりました。
藪内そういや三井田んとこも大変でな。
若背広男何すか?
藪内向かいの三井田さんだよ。耄碌じいさん、ぽっくり逝っちまったと思ったら、今度は息子の良平、肝臓がどうもいけないらしくて。
若背広男はぁ。
藪内肝臓移植をするとかしないとか、安江さん俺にまでしつこく……
若背広男(芝居がかって)し、しまったぁ……!
藪内どうした?
若背広男ちょっ、電話してきていいっすか? 会社に電話入れるの、忘れてて。
藪内なら、ここからかけろよ。
若背広男それがちょっと込み入った話なもんで。
藪内いいよ、長くなったって。
若背広男 煙草。煙草もついでに買いたいんすよ。(急ぎ、部屋を出つつ)すぐ戻ってきますから。
藪内どうしたんだ、あいつ……。

若背広男がいなくなって藪内、ふと眼帯に気づいて手に取る。
が、軽く首をひねって何ということもなく捨てる。
それから何気なくパソコンに向かうが、いざ操作しようとして戸惑いが生じる……。
いったん立ち上がってから座り直してみるが、また躊躇……。
どこからか女の声が聞こえてきて−。

女の声……ぁなた?
藪内……え?
女の声あなた、聞こえてるの?
藪内……里子?
女の声聞こえてるんなら返事してよ。
藪内聞こえてる。聞こえてるよ。
女の声ね、ちょっとあれ、下ろしてくれない?
藪内下ろすって何を?
女の声あのほら、昔のアルバム入れてた箱あったでしょ?
藪内アルバム……?
女の声ねぇ、聞こえてる?
藪内ああ。今、そっち行くから。

藪内、腰をあげて遮蔽された左の部屋へ向かうが、その足取り、いつのまにか鈍くなっている……。
藪内、左の部屋の中から−。

藪内おーい、里子。どれだ? どの箱を下ろすんだ? おーい、里子? 里子?

言いつつ藪内は右の部屋に戻ってくる。
そこへ大きな紙袋を提げた中年の女がやってきて、藪内が目に入るや、声をかけて−。

紙袋女どうですか、調子は?
藪内……あ。
紙袋女(紙袋を掲げ見せ)パジャマ、見栄はってブランドもの奮発しちゃったわよ。
藪内どこ行ってたんだ?
紙袋女え?
藪内今、箱を下ろそうとしてたんだよ。
紙袋女箱? 箱って何の?
藪内アルバムだろ? あっちの部屋の。
紙袋女え? あっちの部屋にそんなもの置いてました?

言いつつ、女は紙袋を持ったまま左の部屋へ−。

藪内……ンだよ、自分で下ろせって言ったくせに。

と、同じく紙袋を手に持ち、前掛けをした若い女が現れて、藪内が目に入るや声をかけて−。

前掛け女どうですか、調子は?
藪内……あ。
前掛け女お話、ずいぶん弾んだんですって?
藪内(その姿を見て)里子……!
前掛け女え?
藪内 ……い、今、隣の部屋に行ったんじゃ……?
前掛け女隣の部屋?

そこへ紙袋女、左の部屋から戻ってきつつ−。

紙袋女箱も何も、何にもないじゃないの、あっちの部屋。[ On Line Theater ]
藪内……!(女2人が視界に入って驚愕)
女2人あ……。(互いに気づいて軽く会釈)
藪内……ぁぁあ!(尻餅をつく)
女2人(同時に振り向き)どうしたんですか?

目を見張って二人の女に目を奪われていた藪内、弾かれたように悲鳴ともつかぬ声を発しながら両腕で目を覆う。
途端に左の部屋の皮膜が音を立てて剥れ落ちる。
するとそこには大小さまざまのおびただしい数の箱が、うず高く、危うげに、塔のように積み上げられている……。
深い井戸の底に突き落とされたかのように、闇。



[Menu]